朝のオフィス街は、冷えた硝子の匂いがする。
ヒールの音が、歩道をリズムのように叩く。
白いピンヒール。少し高め。
その高さが、彼女の姿勢をまっすぐに保たせている。
麻衣は広告代理店の部長だ。
若い頃は“才色兼備”なんて言葉で飾られた。
今は“強い人”で括られる。
褒め言葉のようでいて、そこには少しの距離がある。
昼休み、社員食堂の窓に映る自分の顔を見た。
整いすぎた輪郭に、ため息が滲む。
「美しさって、武器にも盾にもなるけど、刃も鋭いのよね」
後輩にそう言ったことがある。
彼女は笑って頷いたけれど、たぶん本気では理解していなかった。
夜、ひとり残ったオフィスで、
麻衣はデスクの引き出しから小さな箱を取り出す。
中には古いボタン。
母のドレスについていたものだ。
花のような形の、淡いクリスタル。
母はいつも、「これは白薔薇よ」と言っていた。
「白薔薇はね、気高いけれど、棘があるの」
その言葉を、麻衣はずっと守ってきた。
笑顔を棘で隠し、弱さを光で包んできた。
窓の外では、街の灯りが滲んでいる。
ガラスの中の自分が、少しだけ疲れて見えた。
ヒールを脱ぎ、ボタンを手に取る。
指先で触れると、冷たさの奥にぬくもりがあった。
彼女は小さく息を吐く。
「明日も、咲かなくちゃね」
再び白いヒールを履いて立ち上がる。
外はもう夜の終わり。
彼女の歩く音が、静かな廊下に響く。
まるで一輪の白薔薇が、都会の闇を切り裂くように。


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