昼下がりの光は、弱いけれど真面目だ。
机の上に置いた腕時計が、かすかにきらめく。
文字盤の右下に、細いヒビが走っている。
それを見ては、娘が眉をひそめる。
「いいかげんに買い換えたら?」
そう言われるたび、笑ってごまかす。
でも、この時計を外す気にはなれない。
ヒビは三年前についた。
雨の日、傘を忘れて、びしょ濡れで帰ったとき。
玄関で妻が言った、「もう少し自分を大事にしてよ」。
その声が少し震えていて、何も言えなかった。
あのとき、腕から滑り落ちた時計が、床で音を立てた。
ヒビはその音の記憶だ。
それから妻は、少しずつ遠くへ行った。
病室の窓の外で、風が青葉を揺らすころ、
彼女は目を閉じたまま眠った。
葬儀の日、娘は母に似た表情で「お父さん、泣かないの?」と聞いた。
泣くには、時間が止まらなかった。
それ以来、時計を見つめる癖がついた。
毎朝、磨くたびに、ヒビの中に妻の声が残っている気がした。
「時間は止まらないよ」と、少し苦い声で。
娘が成人して家を出る日、
玄関で「時計、まだ動いてるんだね」と笑った。
私はうなずいて、「お前が生まれたときから、ずっと」と言った。
針は今日も遅れ気味だけれど、ちゃんと動いている。
ヒビの向こうに、あの日の空気が透けて見える。
緑の縁は、年を経てくすんだ抹茶色になった。
だけど悪くない。
苦味は、誰かを想い続けた時間の味だ。


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