朝五時の空は、まだ青とも灰ともつかない。
工場の門をくぐるころ、遠くで鳥の声がした。
薄い水色のジャンパーの袖口には、昨日の油が少し残っている。
ポケットの中には、小さな黒いボタン。
古い作業服から外れたやつだが、なんとなく捨てられずに持ち歩いている。
旋盤の音が鳴り始める。
金属と金属が擦れる音は、最初はうるさいけど、やがて心臓の鼓動と重なる。
毎日同じ時間に同じ動きを繰り返す。
誰かに見せるためじゃない。
ただ、決まった場所で決まったものを作る。
それでいい。
息子は都会の会社で働いている。
「父さんの仕事ってさ、地味だよね」
一度そう言われた。
その言葉に腹は立たなかった。
たぶん、若いころの自分も同じことを思っていたから。
でも、たまに工場の中を見渡す。
ボルト、ナット、ベアリング。
ひとつでも欠けたら機械は動かない。
誰かが作った部品が、誰かの手で組み合わされ、
遠くの車や電車の中で動いている。
その輪の中に、自分もちゃんといる。
昼休み、ポケットの黒いボタンを指で撫でる。
滑らかで、少し凹んでいて、油の匂いがする。
まるで工場そのものみたいだ。
目立たないけれど、なくなれば困る。
そういうものを、俺は作っている。
帰り道、空にオレンジの光が差す。
今日も何千回と同じ動きをした腕が、
少しだけ誇らしく感じる。
地味でいい。小さくていい。
この手のひらにある黒い輪は、確かに世界を支えている。


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