黒─黒凹凸銀端三

朝五時の空は、まだ青とも灰ともつかない。
工場の門をくぐるころ、遠くで鳥の声がした。
薄い水色のジャンパーの袖口には、昨日の油が少し残っている。
ポケットの中には、小さな黒いボタン。
古い作業服から外れたやつだが、なんとなく捨てられずに持ち歩いている。

旋盤の音が鳴り始める。
金属と金属が擦れる音は、最初はうるさいけど、やがて心臓の鼓動と重なる。
毎日同じ時間に同じ動きを繰り返す。
誰かに見せるためじゃない。
ただ、決まった場所で決まったものを作る。
それでいい。

息子は都会の会社で働いている。
「父さんの仕事ってさ、地味だよね」
一度そう言われた。
その言葉に腹は立たなかった。
たぶん、若いころの自分も同じことを思っていたから。

でも、たまに工場の中を見渡す。
ボルト、ナット、ベアリング。
ひとつでも欠けたら機械は動かない。
誰かが作った部品が、誰かの手で組み合わされ、
遠くの車や電車の中で動いている。
その輪の中に、自分もちゃんといる。

昼休み、ポケットの黒いボタンを指で撫でる。
滑らかで、少し凹んでいて、油の匂いがする。
まるで工場そのものみたいだ。
目立たないけれど、なくなれば困る。
そういうものを、俺は作っている。

帰り道、空にオレンジの光が差す。
今日も何千回と同じ動きをした腕が、
少しだけ誇らしく感じる。
地味でいい。小さくていい。
この手のひらにある黒い輪は、確かに世界を支えている。

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